大ゴッホ展

「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」に作家の凪良ゆうさんがオリジナルストーリーを特別書き下ろし

本展の開催に際し、小説『流浪の月』、『汝、星のごとく』で2度の本屋大賞を受賞した京都在住の人気作家・凪良ゆうさんが、2篇のオリジナルショートストーリーを書き下ろしました。

 

誰もいない、灯りの落ちた展示室。静けさの中、一匹の猫が迷い込む。彼が見上げた先、ふいに思い出すのは――。


フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》
1887年4-6月、油彩/厚紙、32.4×24cm
クレラー=ミュラー美術館
©Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands.
Photography by Rik Klein Gotink

ショートストーリー「展覧会の猫」


 目覚めると、すっかり暗くなっていた。通風口から下の部屋を覗き見ると、灯りも消えて大勢いた人間もひとりもいなくなっていた。ようやくおれの時間がきたようだ。

 

「なーん」

 

 おれは大あくびをして、ぐうっと身体を伸ばし、暗い通路をするすると忍び歩き、細い隙間から下の部屋に向かって飛び降り、音もなく着地した。

 

 

 薄暗くて、暑くも寒くもない。なかなかいいねぐらだ。あとはご飯だが、どの部屋も壁に絵がかかっているだけだ。腹が減ったなあと見上げた先でおれは立ち止まった。

 

 ——おじいちゃん?

青緑色のふさふさを背景に、難しそうな、寂しそうな顔をしている。

 

——ああ、ああ、おじいちゃん。

 

身体がまだ今の半分くらいしかなかったころ、すごい速さで走ってくる鉄の塊におれははねられた。車というのだと後で知った。お母さんや兄妹が待っている場所に戻る力もなくて、なんとか辿り着いた公園のツツジの下に隠れて震えるしかなかった。ちぎれた尻尾や手や足や耳、出っ張っている全部のところが痛くて、痛くて、痛くて、痛くて——。

 

「どうした、おまえ」

 

ツツジの茂みの向こうから、にゅっと覗き込んできたのがおじいちゃんだった。人間は怖いのだとお母さんはいつも言っていた。捕まるもんかとおじいちゃんの腕をたくさん嚙んで、引っ掻いて、気づくとおれはなぜか元気になっていた。

 

「おお、今日も恰好いい尻尾だな」

 

ちぎれて短い鍵型に丸まったおれの尻尾を、おじいちゃんは毎日褒めてくれた。おれは気分をよくし、くるんと回転して尻尾を見せてやった。

 

おれは家族みんなとはぐれてひとりぼっちで、おじいちゃんも同じだった。

 

「しんさいでぜんぶ持っていかれた」

 

縁側に座るおじいちゃんの寂しそうな青い顔。よくわからないけれど、おれの尻尾がちぎれたような、もう二度と戻らないような、そういうことなんだろうと思った。

たっぷりのご飯とあたたかい寝床。ひなたぼっこみたいなおじいちゃんとの暮らしは突然終わった。ある日おじいちゃんは消え、黒い服を着た人間が大勢出入りし、おれは慌てて逃げ出した。

 

——おじいちゃん、どこ? どこにいったの?

 

あれからずいぶんと経って、おれはすっかりくたびれて、ここにいきついた。

 

——こんなところにいたんだ。

 

青いおじいちゃんの下で、おれは安心して丸まって目を閉じた。

 

ずっと、ずっと会いたかった。

 

ねえ、おじいちゃん。

 

ねえ、ねえ、ただいま。


凪良ゆう

【凪良ゆう(なぎら・ゆう)】

京都市在住。2007年に初著書が刊行され本格的にデビュー。BLジャンルでの代表作に連続TVドラマ化や映画化された「美しい彼」シリーズなど多数。17年に『神さまのビオトープ』(講談社タイガ)を刊行し高い支持を得る。19年に『流浪の月』と『わたしの美しい庭』を刊行。20年『流浪の月』で本屋大賞を受賞。同作は22年5月に実写映画が公開された。20年刊行の『滅びの前のシャングリラ』で2年連続本屋大賞ノミネート。第168回直木賞候補、第44回吉川英治文学新人賞候補、2022王様のブランチBOOK大賞、キノベス!2023第1位、第10回高校生直木賞、に選ばれた『汝、星のごとく』にて、23年に自身2度目となる本屋大賞を受賞。同書は26年に実写映画化されることが発表された。

もう1篇は以下よりお読みいただけます。


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